夜の台所で立ち止まった|ひとりの家が怖くなる短い話

夜に読む短い話

喉が渇いて、台所へ行こうと思った。

部屋の電気はもう消していた。

スマホの明かりだけを頼りに、布団から起き上がった。

水を飲むだけ。

コップに水を入れて、戻ってくるだけ。

それだけのことだった。

でも、部屋のドアを開けた瞬間、台所の方が妙に暗く見えた。

昼間は何度も立つ場所なのに。

朝も、夕方も、何も考えずに使っている場所なのに。

夜になると、同じ台所が少し違う場所みたいに見えた。

冷蔵庫の音が聞こえる

台所の方から、冷蔵庫の低い音が聞こえた。

いつも鳴っている音だった。

昼間なら、気にもならない。

でも夜の静かな家では、その音だけが妙にはっきりしていた。

ぶうん、という低い響き。

たまに、かすかに何かが動くような音。

機械の音だとわかっている。

冷蔵庫が動いているだけ。

そうわかっているのに、暗い台所から聞こえると、少しだけ不気味に感じた。

電気をつけるまでが怖い

台所のスイッチは、壁のすぐ横にある。

手を伸ばせば届く。

電気をつければ、いつもの台所に戻る。

シンクも、棚も、置きっぱなしのマグカップも、全部見えるようになる。

それだけのことだった。

でも、明かりがつく前の数秒が怖かった。

暗い台所に近づくこと。

見えないまま手を伸ばすこと。

その一瞬だけ、何かに触れてしまいそうな気がする。

そんなはずはないのに。

私はスマホの明かりを少し前に向けて、ゆっくり台所へ近づいた。

流しの中が気になる

スマホの光が、シンクの中を少し照らした。

洗い忘れた皿が一枚あった。

昼間なら、ただの洗い物だった。

でも夜の台所では、流しの中まで少し暗く見える。

水滴が光っていた。

蛇口の影が、いつもより長く見えた。

何も変なものはない。

ただ、片づけきれていない台所がそこにあるだけ。

それなのに、夜は少し散らかった場所まで怖く見える。

生活の跡が、自分以外の何かの気配みたいに感じられることがある。

水を飲む音

電気をつけた。

台所は一気に明るくなった。

いつもの台所だった。

冷蔵庫。

シンク。

棚。

置きっぱなしの皿。

何もなかった。

私はコップを取って、水を入れた。

蛇口から水が出る音が、部屋に響いた。

ごくん、と飲み込む音まで自分に聞こえる。

喉が思っていたより渇いていた。

ただ水を飲みに来ただけなのに、ここまで来るのに少しだけ緊張していたことに気づいた。

後ろの部屋が気になる

水を飲んでいると、今度は後ろが気になった。

さっきまでいた部屋。

開けたままのドア。

暗い廊下。

台所は明るくなったのに、明るくなっていない場所が気になる。

見えている場所が増えると、見えていない場所が余計に目立つ。

自分の家なのに。

誰もいないはずなのに。

夜の家では、少し暗い場所が残っているだけで、心がそこに引っ張られる。

私はコップを置いて、後ろを一度だけ見た。

何もなかった。

ただ、暗い部屋がそこにあった。

戻る前に少し片づけた

そのまま戻ろうと思った。

でも、流しの皿が気になった。

さっきは少し怖く見えた皿。

明るい中で見ると、ただの洗い忘れだった。

私は水で軽く流して、端に立てかけた。

本当に小さなことだった。

でも、台所が少し整っただけで、怖さが少し薄くなった気がした。

片づけることは、部屋を安心できる形に戻すことなのかもしれない。

そう思った。

全部きれいにしなくてもいい。

ひとつだけ戻せば、夜の空気が少し変わることがある。

夜の台所の終わり

部屋へ戻る前に、台所の電気を消した。

消した瞬間、台所はまた暗くなった。

でも、さっきほど怖くはなかった。

一度明るい中で見た。

水を飲んだ。

皿を少し片づけた。

何もないことを確認した。

それだけで、暗さの中身が少しわかった気がした。

私は部屋に戻って、ドアを少しだけ開けておいた。

完全に閉めるより、その方が安心できた。

夜の台所が怖くなることがある。

ただ水を飲みに行くだけなのに、暗さや音が気になる夜がある。

でも、怖いと感じた自分を責めなくてもいい。

それは、心が少し警戒しているだけかもしれない。

見えない場所に、想像がふくらんでいるだけかもしれない。

今夜は、水を飲めた。

台所まで行けた。

少しだけ片づけられた。

それで十分な夜にすることにした。

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