帰ってきて、玄関のドアを閉めた瞬間、体の力が抜けた。
さっきまで普通に笑っていた。
ちゃんと話していた。
相手の話にうなずいて、冗談にも笑って、帰り際には「楽しかった」と言った。
それは嘘ではなかった。
楽しくなかったわけではない。
嫌な時間だったわけでもない。
それなのに、ひとりになった途端、急にぐったりした。
バッグを床に置いたまま、しばらく動けなかった。
人と会うだけで、どうしてこんなに疲れるんだろう。
そんなことを思いながら、私は玄関の明かりの下に立っていた。
ちゃんと楽しかった
今日は、悪い日ではなかった。
待ち合わせにも遅れなかった。
お店も居心地がよかった。
相手も楽しそうに話してくれた。
私も何度も笑った。
「また行こうね」と言われたとき、うれしいと思った。
それなのに、帰ってきた今、体だけが重かった。
楽しかったはずなのに疲れている。
そのことが、少しだけ申し訳なかった。
相手のことが嫌いなわけじゃない。
会いたくなかったわけでもない。
でも、人といる時間のあとには、いつもこうして電池が切れたようになる。
楽しかった気持ちと疲れた気持ちが、同じ場所に並んでいた。
相手の表情を見ていた
会っている間、私はずっと相手の表情を見ていた気がする。
今の話、退屈していないかな。
この返事で合っているかな。
笑うところだったかな。
もう少し聞いた方がいいかな。
話題を変えた方がいいかな。
相手が少し黙ると、すぐに何か言わなきゃと思った。
相手がスマホを見れば、つまらなかったのかもしれないと思った。
相手が笑うと、少し安心した。
私は会話をしていたというより、相手の反応をずっと確認していたのかもしれない。
そのときは無意識だった。
でも、帰ってきてから、その疲れが一気に出てきた。
自分の気持ちは後回しだった
本当は、少し眠かった。
途中で、少しだけ静かにしたい時間もあった。
でも、相手が話してくれているから、ちゃんと聞かなきゃと思った。
楽しい空気を壊したくなかった。
疲れていると思われたくなかった。
感じの悪い人だと思われたくなかった。
だから、いつもより少し明るく返事をした。
いつもより少し大きめに笑った。
本当は無理をしていたのかもしれない。
でも、その場ではそれが普通のことみたいに感じていた。
相手に合わせることに慣れすぎると、自分が疲れていることに気づくのが遅くなる。
部屋の中で黙る
靴を脱いで、部屋に入った。
電気をつけた。
部屋は朝出たときのままだった。
テーブルの上に置きっぱなしの本。
ソファにかけた服。
半分だけ開いたカーテン。
外で笑っていた自分と、この部屋の中で黙っている自分が、少し違う人みたいに感じた。
私はソファに座って、しばらく何もしなかった。
テレビをつける気にもならない。
スマホを見る気にもならない。
誰かに連絡する気にもならない。
ただ、音のない部屋に座っていたかった。
会話をしなくていい場所に戻ってきたことに、少し安心していた。
楽しかったのに、返信できない
しばらくして、スマホが光った。
今日会った相手からだった。
「今日はありがとう、楽しかった!」
そのメッセージを見て、胸が少しあたたかくなった。
私も楽しかった。
それは本当だった。
でも、すぐに返信する力がなかった。
どんな言葉で返せばいいか考えるだけで、また少し疲れた。
「こちらこそ楽しかった」と打てばいい。
それだけなのに、語尾や絵文字まで気になってしまう。
冷たく見えないように。
重く見えないように。
ちゃんと感じよく見えるように。
そう考え始めた自分に気づいて、スマホをいったん伏せた。
会っている時間が終わっても、気を使う自分はまだ終われていなかった。
疲れた自分を責める
相手は悪くない。
今日も楽しかった。
それなのに疲れている自分を、少し責めたくなった。
もっと自然に人と会えたらいいのに。
もっと軽く笑って、軽く帰って、軽く返信できたらいいのに。
どうして私は、普通の時間にもこんなに力を使ってしまうんだろう。
そう思った。
でも、少し考えてみると、私は今日ずっと頑張っていた。
相手を傷つけないように。
空気を悪くしないように。
楽しい時間にできるように。
自分なりに、ちゃんとその場にいようとしていた。
疲れたのは、だめだったからではなく、ずっと気を張っていたからかもしれない。
笑っていたのに疲れた夜の終わり
夜が深くなってから、ようやく返信をした。
「こちらこそありがとう。楽しかったよ。」
少し迷って、最後に小さな絵文字をひとつだけつけた。
送ったあとも少し気になったけれど、今日はもう考えすぎないことにした。
部屋の明かりを落として、ソファの背にもたれた。
人と会うのは嫌いじゃない。
誰かと笑う時間も、ちゃんと好きだ。
でも、そのあとに疲れてしまう自分もいる。
そのどちらも本当でいいのかもしれない。
楽しかったのに疲れる日があってもいい。
笑っていたのに、帰ってから黙りたくなる夜があってもいい。
人といる時間に力を使ったぶん、ひとりの時間で少しずつ戻ってくればいい。
私はスマホを少し遠くに置いて、しばらく何も話さない夜の中にいた。
静かな部屋が、今は少しだけやさしかった。

